69歳のTさん(女性)は結婚後二人のお子様に恵まれ、専業主婦としてご家庭を守ってこられました。ご主人が病に倒れた数年はご主人の介護に専念されておりましたが、そのご主人を5年前に亡くされてからは一人暮らしをされておりました。
一人暮らしをされるようになってからは隣接する県にお住まいの息子さんが時々、Tさんの様子を見に行き、元気にされていたので息子さんは特に気にしておられませんでした。
ある時、ご近所で迷子になって自分の家に帰れなくなっているTさんを発見した警察から息子さんに連絡が入るという出来事がありました。
介護施設への入居
息子さん夫婦は同居することが不可能なためご家族の意向により介護施設への入所が決まりました。入居する前は近所の内科を受診していますが、認知症の診断はされていませんでした。しかし、家に帰る道も忘れるくらいですので認知症であることに疑いの余地はありませんでした。
初日、Tさんは初対面の職員に対してニコニコしながら自己紹介をしてくださり、他の利用者と一緒に歌を歌ったり、体操をして過ごされておりました。
しかし、夕食を摂った後、他の入居者の方がご自分の部屋に戻られているのに、Tさんだけは帰り支度をして家に帰ろうとされていました。
はじめは入居が決まった事を理解されていないのかと思い、説明する為に帰ろうとするTさんに話しかけました。そうすると急に亡くなったご主人やお子さんの話を始められました。表情もニコニコしていましたので、ご家族の意向により施設に入居して頂く事の説明をさせて頂くと「うん。うん。」とうなずかれました。
理解されているように見え、部屋に戻られたのですが30分も経たないうちにまた帰り支度をされ同じ事を繰り返します。繰り返しているうちにTさんの苛立ちが激しくなりました。「息子さんと話がしたい」とおっしゃったので職員から息子さんへ現状を説明させて頂き電話でお話をしていただきました。
息子さんはTさんに「迎えに行けないので泊まって欲しい」という内容を話し、Tさんは納得した表情を浮かべていました。
環境が変わることへの不安
長年暮らした家を離れ環境が変わることに不安を覚えられ、パニックになっていることが伝わってきました。
翌日からは午前中は他の利用者さんと一緒に過ごされるのですが、夕方になるとそわそわし、「家に帰る。」と身支度をするという日々が数日間続きました。
楽しく過ごされていた姿がだんだん無気力になり「ボーッ」と過ごされる日々に変わり、はじめの頃はご自分でトイレへ行かれておりましたが排泄の失敗が目立ち、おむつをつけるようになっていきました。
食事に関しても「食べたくない。」「味が悪い。」など職員を困らせる行動が目立ち職員が口元までスプーンで運ぶことによりなんとか召し上がって頂けるという状態になっていきました。
環境が変わる事への対策
入居されてからは数週間前まで自立されていたことができなくなり介護依存度も高くなった為、入居される前の習慣を息子さんやご本人から聴取し、できるだけ入居前の生活に近い環境作りに取り組みました。
まずは起床時間や就寝時間のチェックをしましたが、朝は6時に起きて、夜は10時に寝る生活をしていましたので、その時間通りに合わせました。そして、長年使っていたお布団も運び込み、元の就寝状態を保つことにしました。
また、Tさんは、ご主人が健在の頃より夕方に散歩へ出かけられ、近所の犬に挨拶をしたりして決まった道をお散歩コースとしており、施設に入居されるまで続けられておりました。幸いにも施設とご自宅が近所だった為、同じコースで夕方の散歩へ出かけることが可能でした。
その頃には、Tさんは歩行が困難になり車イスでの移動になっておりましたが初めて施設から職員が押す車イスで散歩に出かけた時には「私、この道が分かる。」と言って喜んでいるのが伝わってきました。雨の日は散歩に出れないのでTさんは残念そうに「今日は雨ね。」と口にされておりました。
Tさんは足が悪くなったわけではなく、食欲不振から気力が落ち、歩行困難になっておられたので「杖をついてでも歩きたい。」と言うようになりました。
食事についても「お腹がすいたからたくさん食べたい。」と言うようになり、「杖で歩く為に栄養を沢山摂らないといけませんね」という職員との会話にもハキハキと答えています。
その結果、入居してから落ちていた体重も少しずつ元に戻る傾向にありました。就寝環境と就寝時間、そしていつものコースで散歩という2つの対応で症状がかなり改善し、環境の変化がこれほどまでに大きいものであることに改めて気づかせていただきました。
その後のTさん
Tさんは亡くなられたご主人の話やご家族の話をよくされていたので息子さんにお願いしてご家族のお写真を持ってきて頂きました。
Tさんは亡くなられたご主人の写真を見せながら「よか男でしょ?」と嬉しそうに話され、他の入居者とも会話をされるようになりました。
今回の話は環境が変わり急激に介護依存度が高くなった症例でしたが、何か一つの取っかかりを見つけることによりそれがプラスに働いた良い事例です。