私の勤めていた老人ホームに入居されていたAさん(当時80代、女性)のエピソードです。
この方は元々関西の裕福な家庭に育ち、夫は大学の教授、ご本人は非常に聡明で人格温厚、物腰も柔らかで、良妻賢母を絵に描いたような人物という評判があったそうです。
しかし、夫に先立たれ、80歳を過ぎたあたりから突如人格が豹変したかのように攻撃的になり、近隣の方に「あなたが私の帽子を盗んだ」「夫と浮気をしてるでしょう」などと毎日のように家に押しかけて怒鳴り散らすようになり、東京在住のご子息の意向もあり、私の勤めていた老人ホームへ入居して来られました(旦那さんはすでに他界しているため浮気していると言う事実はありません)。
入居されて分かったのですが、この方はいつも攻撃的なわけではなく、どうにも感情の波がある模様でした。入居当日、施設職員に対し「ご迷惑をおかけいたします」と深々と礼をされる姿は、まさに上品な老淑女といった風で、他の入居者の方ともすぐに打ち解け談笑をされていました。
ところが、翌日となると、「私は何故こんなところでこんな人々と居なければいけないのか」「私の周りは皆泥棒だ、ここは泥棒村だ」と泣きわめき、私や他の職員に対して「あほ、間抜け、きちがい」などと思いつく限りの罵倒語を並べ立て、そこら中にあるものを掴んでは放り投げるという有様でした。
職員が2人がかりで「大丈夫、大丈夫」「ごめんな、心配させてもて。俺らが悪いんですわ。すいませんAさん」「Aさんはええ人やから」となだめて、その場はとりあえずの落ち着きを取り戻させました。
入居直後は長年親しんだ環境からの変化もあり、皆様何かしらの拒絶反応を示されるものです。この方も、なだめられると今度はケロりとした風となって「そう、すいませんね」「いえ、私も悪かったのです、はしたなく怒鳴ってしまって」と、普段の老淑女の姿へと戻られるのです。
突発する暴言と周辺環境への影響、負の連鎖
しかし、それこそがこの方の介護が難しい点でありました。普段はとても大人しいのに、ある時突然に妄想に襲われ、周りに居る人間すべてに攻撃を向ける、しかもそのタイミングが全くわからないので常に目を離せないのです。
特に問題なのは、他の入居者の方への暴言でした。職員ならば、何を言われようが仕事ですし、また覚悟もできているので問題はありません。しかし、同じ認知症を抱えた高齢者の方は大変にセンシティブです。ただでさえ我が家ならぬ施設に暮らす身、Aさんの罵倒に傷ついて憂鬱になり、認知症が悪化する危険性すらあります。既に会話ができないぐらい認知症が進んでいる方でも、人に罵倒されている、という状況は直感的に伝わります。
そのような入居者の方が、ほろほろと涙を流されていることもありました。また、Aさんの暴言に呼応し、激怒して暴言で返す入居者の方も居られ、Aさんを呼び水として施設に対する罵声が飛び交うことにもなりました。
無論、その入居者の側にも、言い返されたAさんの側にも、精神衛生上よろしからぬことは言うまでもありません。このままでは、介護の環境ではなくなってしまう・・・そんな危機感すらありました。
専門家のご意見と改善
そこで私たちは、精神科医の先生にご来診頂き、また臨床心理士の方に助言をいただきました。
先生方の分析によれば、Aさんは庇護者であった夫を失い、誰も自分に寄り添い守ってくれる人がおらず不安であること。そしてそれ以上に、ご子息が独り立ちし東京に去ってしまった孤独から、誰も自分を頼ってくれない、自分はもう必要がないのではという孤独を感じていること。
この2つが原因となって、こういった衝動が出るのであろう、前者は施設の環境に慣れて「ここは安全なのだ」と思えば良いので時間の問題である。
肝要なのは後者で、Aさんご自身に何らかの生きがい、必要とされているという実感を抱いていただければならない。そうすれば、改善するのではないか。というものでした。これを受けて私たち職員は、Aさんに対してこう提案したのです。「よろしければ、お料理を手伝っていただけませんか?」
入居者は当然介護される側であり、いつも頼るばかりで、頼られていない存在です。こういう状況を打破するため、敢えてAさんに「お仕事」の依頼をしたのです。Aさんは、とても嬉しそうに「はい、私でよければ」と答えてくださいました。
それからも、Aさんのご負担にならない程度に、ちょっとしたことを「手伝って」と頼むようにすると、みるみるうちにAさんの被害妄想は収まり、他人を罵倒することはなくなりました。「ここの人らは良い人ばかり」「せやけど、ちょっと頼りなくて、私がおらなあかんのですよ。」とジャガイモの皮を剥きながら語るAさんの顔はとても明るく、溌剌としたものでした。
[参考記事]
「会社で高い地位にあった認知症利用者の暴言対策」